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2011年6月15日 (水)

龍谷大学図書館所蔵『山田盛太郎文庫』付属資料-4(11年7/8改訂)

《資料:聴講ノート》

 第二外国語経済学 山田助教授講述
   昭和5年4月-7月
  謹呈 山田先生    一聴講者 奥山清四郎


 属資料の中から一冊の古い小型の大学ノート(21x15cm)が出て来た。 表題は上記の通りであるが、紐解くと次のようなことをまず読み取ることができる。

1)東京帝国大学経済学部における第二外国語経済学聴講者による講義録
2)講義をした教官は経済学部助教授、山田盛太郎
3)該当講座の開講年月日は、昭和5年の4月から7月まで
4)受講後ノートを作成し、山田助教授に贈呈した者は奥山清四郎

 追加事項としては
5)当ノートは受講生、奥山清四郎氏により受講後に一気に清書され、教官へ贈られた(郵送された)ものと推定
6)ノートは全て右側にのみ内容を記載(左側は空白)
7)講義録は全て青インクで書かれ、頁の右上余白には鉛筆による通しナンバーが打たれている
8)ノートのINDEX部には何も書かれておらず、講義録以外の余白部にも書かれた形跡を確認できないが、余白の最後から二頁目が一枚、上から下へ(少し乱暴に)一気に破り取られている
9)龍谷大学深草図書館所蔵の山田文庫内付属資料の中で、学生等による受講記録の所蔵が確認できるのはこれのみ

 京帝国大学経済学部における昭和5年の学科課程によれば(当時の学科課程は大正15年に改正されたもの)、第二外国語経済学(英、仏、独)が課程としてあるのは入学一年目の夏学期(第一学期)と同冬学期(第二学期)のそれぞれ選択科目として(毎週授業時数は共に2)であり、第三学期(夏学期)以降卒業年度の第六学期(冬学期)の間にはその設定がない。 ちなみに第一外国語経済学(英、仏、独)は必修科目(毎週授業時数は2)であり、経済学部の商業学科では3年間に第二外国語経済学の設定はない。

 山田先生は昭和4年と5年にこの第二外国語経済学を担当された。(『著作集』別巻には昭和4年度の第二外国語経済学講義に於いて配布された資料が掲載されている。別巻P.162参照)
 しかし、昭和5年7月、山田先生は突如辞表を提出され、東京帝国大学を退職(依願免本官)されると同時に、警察の拘束するところとなり、同年の12月まで拘禁を受けた。


 下記の【PS】中の最後の方での脇村氏の発言からは、7月の上旬には既に授業が終わっていたこと、山田先生が拘束されたのが7月19日であったことなどから、夏学期での講義分は一応終了していたものと思われる。

 このような事情から、この献呈されたノートに書かれている開講年月日からは、このノートが山田先生の東大経済学部での第二外国語経済学の最後の講義記録といえるものではないのだろうかとの憶測が可能なだけではなく、本来予定されていた冬学期分が授業できなかったために、奥山氏の講義記録ノートにはこの夏学期分のみが記録されていたことになる。
 したがって、
少なくとも現在まで、昭和5年の他の記録だけではなく前年の昭和4年の講義録の存在も確認されていないし、この当時の山田先生自身による第二外国語経済学講義のための資料(『著作集』別巻、p.162)以外の記録が見つかっていない以上、このノートの日時内容に間違いがなければ、このノートの存在意義は極めて重要なものとなる。
 (PS:欲を言えば、昭和4年の夏冬両学期での講義ノートが発見されればなお良いのではあるが、『著作集』別巻のp.162から推測すれば、主に表式論、利潤論や地代論が冬学期の講義用に充てられていたのではないかと推測することができる。後年での体験則から言えるだけではあるが、山田先生は余程のことがない限り、配られたレジュメは全て解説されたからである。


 なぜならノートの内容は、その後、改造社版『経済学全集』第十一巻に掲載された「再生産過程表式分析序論」(周知のことではあるが、「過程表式」は組文字として二段に分けて書かれているが、当ネットでの表記が難しいため、このような表記となった)の脱稿が昭和6年9月8日、続く『発達史講座』の第1稿である「工業に於ける資本主義の端初的諸形態、マニュファクチュア、家内工業」の脱稿が昭和7年3月24日と続くその後の研究成果の発表の直前の認識内容の痕跡を留めているからなのである。

 『発達史講座』後の『日本資本主義分析』を出版されてからは、講演をはじめ、戦後の大学での講義や集中講義、また公開講座に関しても、ノートや速記録だけではなく録音等の資料を含めると夥しい程の記録が存在するのであるが、戦前のこの時期の資料は現在確認できているものがこれ以外になく、他方ではこのノートの内容についての吟味が必要ではあるものの、この講義録の意義は大きいと言わざるを得ない。

 ノートでは特別に章、節等の構成をとってはいない。 また、時には時間中の山田先生の会話と思われる表現も書かれている。
 例えば「再生産論ニツイテ研究スル箇所
問題ニナル箇所数カ所 10カ所位ニ別ケテ少ナクトモ二人位デ共同研究スルコトニシテハ如何」(ノートの21頁)など。

 これらのものに特徴的なように、当時の講義の様子をある程度は活写しているように思える。(ちなみに表式の説明はこのノートには見られない)

 また、後の著作で何気なく使われている「筋骨体系」「脈管体系」と言うような文字も使われている。

 他方、ノートを書かれた奥山清四郎氏については、現時点では確たる追跡ができていないため、当稿においては現時点での論評は控える。

 このノートは表紙を上にし、内側に縦に二つ折りにされた形跡が残る。 恐らくそれは奥山氏が山田先生に郵送する時に付いた癖であろうと思われる(「謹呈 山田先生 一聴講者 奥山清四郎」とあることから)。

 現時点で、龍谷大学所蔵の山田文庫内における学生による講義ノート類の資料が、このノート一冊であることから、軽々な速断は慎まねばならないが、このノートが山田先生にとって特別な意味を持っていたものであろうと解することは当稿筆者の行き過ぎた解釈になるであろうか。

 なお、内容の詳細については資料の整理が完了し次第、龍谷大学のサイト上において公開されるとして、取り敢えずは以下の写真をもって速報に代える。

1)
第二外国語経済学ノート(表紙)
2)第二外国語経済学ノートp.1(書き出し)
3)第二外国語経済学ノートp.11
4)第二外国語経済学ノートp.13
5)第二外国語経済学ノートp.18
6)第二外国語経済学ノートp.25
7)第二外国語経済学ノートp.28(最終頁)

【PS】
 事件当時の様子は、下記の座談会における山田先生本人を始めとする多くの当時の教官諸氏による証言を引用することで大凡の概要を知りうる。 これは極めて長文でもあり、且つ、既知の資料ではあるが、重要なものであるため厭わず引用する。
 以下『東京大学経済学部五十年史』から引用(注:原本では目次凡例があるので発言者は全て名字のみであるが、ここでの引用では、初出はフルネイムで、再出では名字のみを記すことにした。また、山田先生の発言部分が長いため、読みやすいように区切りを入れた。)

安藤良雄 ところで、大森事件が昭和三年、そして一年おいて、昭和五年に山田先生がおやめになるということが起こりましたが、これは直接、山田先生から…。
山田盛太郎 僕は昭和四年からゼミナールで再生産論をやりました。
 その年の夏ごろ、その春に卒業したばかりの一人の青年が私のところへきました。
 彼はそのとき『労働統計実地調査』、それは東京府の原表二冊の統計書ですが、それをもってきて、「合理化の影響として婦人と青年が一番被害を受ける、自分は合理化による青年労働者への影響ということをテーマとして研究しているのですが、よろしく指導していただけませんか」ということで、僕は再生産論をやっているし、まんざら関係がないというわけではないから、ときどき来てもよろしいという話をしていた。
 その後、彼はときどき来ましたが、ある日、『無産青年』という小型の新聞をもってきまして、これはときどき発禁を食って相当経営が苦しいので助けてほしいということでした。
 それで月に十円ずつ出しましょうといって、三回出したんです。
 それがひっかかったわけですね。
 それで、五月十日、朝早く六人の私服がきて、令状を示しました。
 僕はそのまま家宅捜査を受けて、それから出頭させられました。
 
僕はそのとき、雑司ヶ谷亀原に居住していましたから、結局、目白署に連れて行かれたんですが、警察側ではたいへん大げさなことをいうわけですよ。
 僕は初めいったい何が問題なのか、皆目見当がつかなかった。
 昼頃ですね、問題の輪郭がほぼわかり、僕の対処する態度がきまってきたのは、その日は夜になって帰されて、「翌日もういっぺんきてください」ということで翌日また行った。
 このときも夜に帰されました。
 六月下旬に一度検事の家宅捜査を受け、七月初旬任意出頭のかたちで、検事の呼び出しを受けて出頭したわけです。
 そのとき検事は、家宅捜査で持って行った『無産青年新聞』を操って、共産青年同盟の合法的機関誌と書いてある箇所をみせました。
 それで問題は、「これは結局共産党に金を出しているんだろう」、「いや、共産党ではない、無産青年新聞だ」。
 それに「機関誌と書いてあるじゃないか。
 共産青年同盟」、「いやそうじゃない。それは合法的なんだ」、「合法的というのとそれの差はどこにあるか」、「合法的というのは、この新聞は発行停止処分を受けていない。
 発行禁止処分を受けているだけだ。
 つまり一回一回、出版されるのが禁止されるだけで、それの存在自体は許されている。
 だからそこへ金を寄付するということは、その範囲では許されるべきものである。だから合法的なんだ」というふうです。
 それが争点になりますけれどもね。
 それから七月十九日、もう一回、任意出頭のかたちで呼び出されました。
 きょうは説諭があって、それで終りかと思ったら、「これからすぐ刑務所に行ってもらいます」ということで、すぐに回されました。
 辞表を提出したのはこの前に、検事局へ行って帰ったときですね。
脇村義太郎 七月上旬にいらっしゃって…。
山田 七月十一日が発令になっているから、その前です。発令の日は教授会決定のあった日じゃないかと思う。
 その教授会の開かれる前日じゃないですか、(大内名誉教授に向かって)先生がいらっしゃってくださったのは…。
大内兵衛 亀原にね。僕はぜんぜんわからなかった。どうも山田君が捕まったんじゃないかと思って、お見舞をしたわけです。
安藤 山田先生は隠密に検事局、警察に行っていらっしゃっていた…。
大内 僕らぜんぜん知らなかったけれども、どうも山田君がいないようだと思って…。
  以上[p.667~669]           

 (途中略)

安藤 先生は結局、未決で拘束されたのはどれくらいの期間ですか。
山田 七月から十二月下旬までじゃなかったかな。ですから冬は越していない。その点は助かったが…。
脇村 僕なんか冬を越している。
安藤 ところで、このことが起こったときには、大塚先生は助手になっておいでですか。山田先生がおやめになったときは…。
大塚久雄 私は昭和五年の卒業ですから、助手になったばかりのときでした。
安藤 当時、助手、学生はこの事件をどういうふうにうけとめていたんでしょうか。
大塚 それはたいへんなショックでしたね。びっくりしましたね。
脇村 夏休み中だったということもありますね、だいたい夏休みに入る教授会の最後か、そのちょっと、ひとつ前の教授会ぐらいで、講義はすんでいました。
山田 そうですね。
脇村 七月七日か八日で、休みになりますからね。事件が起こったときはまだ学校があって学生もいたし、授業もあったけれども、おもてにはわからなかった。おもてに出てきたのは、七月六日ですからね。夏休みに入っておりました。暑いころだった。
鈴木武雄 なぜおやめにならなければならなかったのか。
安藤 つまりそのときは、『無産青年新聞』に寄付した、そういうことだけで、やめなければならないのはなぜかということですね。
鈴木 そうです。
大内 そういう事情はわかっておりましたか。
鈴木 それはわかっておりましたよ。
山田 起訴になるまでは拘束は受けなかった。夜は帰されました。しかしあのとき、それは東大だったからだそうです。私学の人ははじめに拘束されたようです。三木(清)君、小林良正君も十日間ぐらい。東大にはまだそれだけ遠慮してくれた。
安藤 当時の官吏制度からいえば、官立大学の助教授は高等官というステイタスの関係もあったでしょうしね(中塚注:下記の注を参照のこと)。
  以上[p.672]
『東京大学経済学部五十年史』(東京大学経済学部編、昭和51年4月20日東京大学出版会発行)より。([p.  ]は、それぞれの掲載ページを示す)
 (中塚注:これも既知の部類に入るため蛇足となるであろうが、山田先生は大正9年9月東京帝国大学経済学部に入学、同12年3月卒業。同年4月東京帝国大学経済学部副手に採用され、同13年6月助手、同14年4月に助教授[高等官7級]に昇任。昭和4年10月高等官5級、従六位に任官。扱いは宮内省管轄となり、当局は遠慮せざるを得なくなっていた。)

【2011年6月23、24日改訂】
【2011年7月8日改訂】

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