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2015年1月 5日 (月)

奥山清四郎氏についての一報告(2015,01,05)(2015,1,07改訂)

 年末、龍谷大学山田盛太郎文庫へ、原 朗東大名誉教授他三名の方々の訪問があり、山田文庫を見て頂き歓談。

 その折、奥山清四郎氏作成に掛かる山田先生の戦前最終講義のノートのことが話題となり、奥山氏が何時東京大学へ入学されたのかという資料までは探し出したのだけれど、卒業とその後のことについては未だ確実な資料の発掘が出来ていないし、訪問した東京大学経済学部では情報開示に至るには手続きが難しくて成果をあげることが出来ていない、と事情をお話しした。

 そこで原氏が、それでは経済学部同窓会である経友会の資料を探せば分かるのではないかと仰られ、山田文庫に一冊だけ収納されていた昭和55年度・昭和56年度版の経友会『會員名簿』を急ぎ調べると、なんと奥山清四郎氏の卒業が昭和8年であったこと、そして、昭和56年の時点で東京独立新聞社主筆である旨の記載を発見し、以前見ていた『矢内原忠雄全集』(岩波書店)の内容に符合することから、一気に奥山氏についての内容が具体的に拡大したのだ。

 この講義録ノートは取り分け表紙の劣化が進んでおり、多数の方々による閲覧には到底耐えられそうにないので、映像データ(CDあるいはDVD)による公開を現在想定しており、 この媒体に付けるノートの説明文の主要な部分を以下に掲載します。 もし、同学の諸兄姉の問題点整理の参考となるようであれば幸いです。

 上記のような事情から、一気に奥山氏の具体像が進化出来たことは、まことに原氏の慧眼の賜であり、ここに改めて感謝の意を表します。 有り難うございました。

 【参考】 奥山氏のノートの部分影像
  頁1(最初の頁)   頁11   頁13   頁18   頁25   頁28(最終頁)


【注1】 当ノートの内容を活字化し、出来れば映像媒体に添付しておこうと思うが、これはもう少し余裕が出来たときに行う。 
【注2】 奥山氏については、かなり分かってきたものの、あと一歩調査を深めてもう少しディテールを膨らませる必要があるのではと考えている。 例えば出生地(資料から確実に山形県であるという情報の確認)や生年月日、できれば経済学部に於ける指導教官等が分かればベストではあるが、関西での作業では些か難しい側面があり、取り敢えず、判明している下記の説明文を添付し、判明し次第改訂することにする。
【注3】 この注3を書くことに随分逡巡した挙げ句、(最初はやはり書かなかったし、また、下記の媒体への説明文にも書く予定はないが)旧制の大学では修業年が現在の4年ではなく、3年であったことを一応記しておこう。 この記事をUPした後、色々と考えあぐねたが、念のためにやはり書き添えておこうと思う。 この点に関しては、多くの諸兄姉には今更陳腐些末なことで、間違いなく蛇足ではあろうが、本当に若い方々には動もすると不案内であるかも知れないと熟考の末、老婆心から改めてこの注を書き添えた。 不悪。
【注4】 今回作成された映像データは、奥山氏の情報をもう少し追加されねばならないと思うので、最終版としてもう一度改訂作業の必要がある。

 【 以下、媒体に添付する説明文のうちの叙述部分 】

 「の受講者ノートは、龍谷大学深草図書館所蔵の山田盛太郎文庫付属資料中の一資料であり、山田盛太郎氏が助教授として東京帝国大学経済学部在籍中に担当された第二外国語経済学の受講者である一学生(奥山清四郎氏)から、昭和5年の夏学期終了後に提出された受講ノートである。ノートは長らく山田氏の自宅書斎に於いて保管されていたが、山田氏逝去の後、その所蔵されていた蔵書や諸資料が龍谷大学深草図書館に収められ、その整理作業中に発見された。

  受講者の奥山清四郎氏については、『東京帝国大学一覧 昭和五年度』(昭和5年7月5日、丸善株式会社発行)のp.534の上から二段目に、昭和5年の経済学部への入学者名簿中に奥山清四郎氏の名前が掲載されている(この資料からは奥山氏が山形県の出身であり、また、下記の経友会『會員名簿』からは[旧制]山形高等学校を卒業されて東京帝国大学経済学部に入学されたことが分かる)。(編集者注:上記資料の画像は、当CD中のファイル「#当資料について」の中にJPG ファイルで格納されている)

 また、昭和五十五年度・昭和五十六年度版の東京大学経友会の『會員名簿』のp.89の上段には奥山清四郎氏が昭和8年3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業され、昭和56年に於ける最終経歴が東京独立新聞社主筆である旨を確認することが出来る。(編集者注:上記資料の画像は、当CD中のファイル「#当資料について」の中にJPG ファイルで格納されている)
 昭和56年までの奥山氏の経歴やそれ以後の氏の消息については当稿作成時(2015年1月5日)では詳らかではないが、些か不十分ではあるが、参考までに下記の資料中に奥山氏についての記載がある。

 『矢内原忠雄全集』第17巻(短言)(1964年7月11日、岩波書店発行)の707頁に『嘉信』第二十三巻第四号(昭和三十五年[1960]四月)に“『東京独立新聞』創刊”なる記事があり、次のような書き出しで始まる。
 「今度私が顧問となり、坂井基始良、奥山清四郎、藤田若雄、大浜亮一の四君が編集委員となって、『東京独立新聞』を創刊することになりました。五月十五日第一号を発行する予定であります。当分月1回発行、タブロイド版四頁、値(送料共)一部三十円、半年一八○円、一年三六○円とし、無教会信仰の立場から政治・経済・社会・教育・科学・文化・家庭等の問題につき、解説・研究・批判の記事を載せ、一般の人々に知識と判断の材料をわかりやすく提供するのが目的であります。…」
 この『矢内原忠雄全集』第17巻には少なくとももう一カ所(p.311)にも奥山清四郎氏の名前を確認できる。

 この『東京独立新聞』は東京目黒の今井館教友会において全冊(1-350号、1960-1989)が保存されている模様であるが、当稿執筆時点(2015年1月5日)では当稿の編集者は未だ現物を確認できていない。
(【編集者注】奥山清四郎氏はノートの署名がS.Okuyamaと書かれていることから、その氏名は「おくやま せいしろう」と読むのであろう。)


 山田盛太郎氏による東京帝国大学経済学部の第二外国語経済学は、昭和4年から開始され、昭和5年の講義は4月から7月まで開講されたので昭和5年入学の奥山清四郎氏はこれを受講することができた。

他方、昭和5年7月に山田氏は東京帝国大学経済学部へ辞表を提出、受理されて辞職退官された。
この間の事情を『東京大学経済学部五十年史』(東京大学経済学部編、昭和51年4月20日東京大学出版会発行)所収の座談会(p.667~669)から要点だけを書き出せば以下のようになる。

 ○昭和5年6月下旬に一度検事の家宅捜査を受ける
 ○同年7月初旬任意出頭のかたちで、検事の呼び出しを受けて出頭
 ○同年7月上旬辞表を提出
 ○同年7月11日が発令
 ○同年7月19日、もう一回、任意出頭のかたちで呼び出しを受け、「きょうは説諭があって、それで終りかと思ったら、『これからすぐ刑務所に行ってもらいます』ということで、すぐに回されました。」
 ○同年7月から12月下旬まで拘禁を受ける

  従って、この奥山清四郎氏による第二外国語経済学の受講ノートは、山田氏の東京帝国大学経済学部における戦前期最後の講義記録とみなしうるものであり、それ以前の『経済学論集』掲載の二論文や雑誌等に掲載された諸論考と、続く「再生産過程表式分析序論」(昭和6年改造社版『経済学全集』第11巻、但し、net上では表し得なかったが、論稿名の「過程表式」は正しくは割注様式にて表記されている)、『日本資本主義発達史講座』(昭和7年から8年にかけて刊行)、『日本資本主義分析』(昭和9年刊行)等の退官後の研究活動を繋ぐ上で、資料としての一定の吟味を要するも、山田理論を知る上で極めて重要な位置に存在する資料といえる。

 ([最終改訂]2015年1月5日)」

[2015,01,06改訂] 注を追加
[2015,01,07改訂] 7点の映像を追加

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