2008年9月12日 (金)

ふと感じたことを書き付けた

一つ多い幸に感謝!
一つ少ない不運に合掌!

一つ人より不幸が多く感じられても感謝!
一つ人より多く幸運に見放されていたとしても合掌!

風が分け隔て無く頬を撫でてゆき、
太陽が等しく照らしながら天空を駆ける。

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2008年6月22日 (日)

頃合いを見計らう

 “頃合いを見計らう”
 何という絶妙かつ、微妙な表現なのであろうか。

 最良の落とし処を見付けて、ソッと技を掛けようというのである。
 凡人には「頃合い」をつかむのさえも難しいのに、
 さらに、それを「見計らって」何か行動を起こそうというのだ。

 一番無理が小さい条件の下で、少しの力で最大限の効果を生もうというのだから、本当に唸らずにはおられない。

 近頃、この「頃合い」が読める人が本当にいなくなったように思われる。
 いや、いなくなったのではない、「頃合い」を読むこと自体に世間が関心を寄せなくなったからなのだろう。
 近頃は、何もかもが力尽くで、ゴリゴリなのだから!

 実は、この「頃合い」を「見計らわれた」人にも、それなりの度量というものの持ち合わせがいるのであって、それは仕掛ける気合いと、受け取る度量とががっぷり四つに噛み合った時、初めてそこに「頃合い」というものが生きる仕組みができあがるからなのかも知れない。

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2007年11月25日 (日)

良き師に出会って

良き師が弟子に授けるのは性根[ショウネ]であって知識ではない。
普通の教師が生徒に教えるのは知識の形許りの一塊だけである。

性根は静かに山肌から滲み出てくるものであるが、知識は崖から激しく転がり落ちてくるものだ。
性根はなかなか伝わらないが、知識はすぐに伝わる。
性根は言葉では表しにくいが、知識は言葉によってすぐに書きとどめ、人に伝えることが出来るからだ。
目を瞑っても伝わってくるのが性根であり、目をよく見開いて初めて伝わるのが知識。

知識はいかに山のように積み上げても性根の足元へも及びはしない。
山なす知識をただ習得するのには大いなる苦痛が伴う。
性根の船に乗って学ぶのも相当な苦痛を伴うが、これは楽しめる苦痛である。
知識は性根で耕してこそ良き実を結ぶ。
授からねばならぬのは性根であって、山のような知識等ではない。

まことに良き師に巡り会うには不思議な縁[エニシ]に依らねばならないのだが、巡り来るその日のためにも心の鉢は何時も磨いておかねばならない。

我が身を振り返り、今まで実に多くの良き師に巡り会えた果報に感謝しつつも、己の真に至らざるを偏に恥じるのみである。
満腔からの感謝を込めて、合掌。

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2007年11月22日 (木)

何気ない行為の裏に、こっそりと吹き込む心の隙間風

 人は偶然ある経験をして、それが全くの偶然な出来事であったにもかかわらず、それがまるで、ある必然に基づいたものであったかのように自己解釈してしまい、心のどこかで、次も同じことが起きることを期待する。

 ここに感情の亀裂の小さな蕾が静かに息づき始めたことにはなかなか気が付かない。
 しかし、この期待の裏切りを数多く経験し蕾に気付くことで、人は初めて自分というものを捕まえることができるようになって一人の社会人となり、一人前の大人になれる。

 残念なことに、手懐けたはずの小鳥も、手を離すと何処かへ飛んでいって戻ってこなくなることに頭を抱えることも経験するのだけれど。

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2007年11月12日 (月)

泥鰌(どぜう)問答

柳の下には二匹目のドジョウはいないかも知れない。
   しかし
柳の下で一匹のドジョウを見付けた人は、この柳の下に、必ず二匹目のドジョウを探しにやってくる!
また、その人は、他の柳の木の下も必ずドジョウがいるかどうか探してみるにちがいない!

   問う!
柳が生えているからドジョウがそこにいるのか、
人が探して歩くからドジョウが見つかるのか。
   されば、
柳が無ければドジョウはいないし
人が探さなければドジョウが人に見つかったりはしない。

   また、問う!
柳の下に住まいするドジョウが必然なのか、
ドジョウを探し歩く人が必然なのか?

【追伸】 2007-11-22
 蛇足ではあるが、私達の一族には何故か「泥鰌を食ってはならぬ!」という昔からの掟がある(今となっては理由は不明)。 だから、いまだに私は泥鰌の味を知らない。 だけど、人が皆泥鰌を食っている席でも、“掟”を楯に安んじて一人鰻に舌鼓を打つことができるという旨味もある。
 泥鰌の好きな柳の下には鰻は居そうにないので、泥鰌を知らない私には彼らの気持ちをうまく推し量ることが出来ないし、従って、それを探して歩き廻る人々の気持ちも又よく分からない。
 だから、上の質問の答えを「どうなのだ!」と聞かれても、「まずは、泥鰌が食えるようになってからでは!」と、暫し答えをば保留させていただくことが出来るのではないか、と不埒なことを考えております。
 不悪。

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2007年10月31日 (水)

旅の掟

歩き続けなければ辿り着くことが叶わない場所がある
登り続けなければ自分の足で踏み締めることが出来ない頂がある
飛び込んで、泳ぎきらなければ立つことの出来ない向こう岸がある

 その時、振り向くと、累々とした行き倒れ、遭難者、土左衛門の山が見えるはずだ!
 彼我の境を分かつものは一体何なんだろうかと思うと、ブルッと身が引き締まる。

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2007年10月14日 (日)

人の営み

豊かな国土における豊かな国家
豊かな国土にも関わらず、何故かそこにあるのは貧しい国家
貧しい国土にも関わらず、豊かに見せる国家
貧困に喘ぐ国土、貧しさに打ち拉がれた国家

A.Smithが見詰めたもの。
政治経済学が成立し、その存在意義を主張する理由。

貧しさとは何なのか、豊かであると言うことはどのようなことなのか。
何故に貧しいと言い、何故に豊かであるというのか。
これらの向こうに共通に覗えるのは共に人の営みが関わる現象であることだ。

何が両者を峻別する基準なのか?
人の営みの本質は何なのか?
社会と人との関わりの本質は何なのか?

決して古びることなく、人々が生きている限り語り継がれる疑問。

現在、世界中で社会科学を専攻する者共よ、答えろ!

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2007年10月13日 (土)

処世の難しさ

一途にならなければ決してことは成らない。
 しかし、
一途になりすぎると肝心なものを見失ってことをしくじる。

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2007年10月11日 (木)

夕焼け空を仰いで

子は親を見て育ち
社員は経営者、上役を見て毎日を営み
国民は政治家を見て日々を暮らす

親は子に見られていることを忘れ
経営者、上役は社員が常に彼等を意識していることに気付かず
政治家は国民がジッと彼等を注視していることに対し感覚を失った

親は子供の前に熱き眼差しを曝し!
経営者、上役は自ら先頭に立ち、よって立つ理念を広く示し!
政治家はただ黙々と国民の明日を拓け!

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2007年10月10日 (水)

続々、商売の骨(こつ) 締まりについて

 少し前、何のコマーシャルであったかは忘れてしまったが、「帯と商いは締まりが大切」(たしかこのようなキャッチフレーズであったと記憶している)というものがあった。
 なにやら、京都の御店で代々伝わる家訓のような感じではあるが、むかしは誰もが身に着けていた帯というものに仮託したこの一見古臭そうで黴の匂いがしそうなこの言葉の奥に潜むものをよく味わってみると、まことに言い得て妙であるという感に打たれる。 現代の我々は、時にこのことを忘れてしまいがちである。

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