2016年11月30日 (水)

山田文庫整理の近況とお知らせ

この冬は殊の外寒暖の差が激しく、低体温症の身としては、毎日生きてゆくのが実に命懸けであります!
 昨年六月、山田文庫を整理していく上での資料探査と幾つかの確認をするためと、学会参加も兼ねて四日間東京を一生懸命駆けずり回りました。 予め少しは予測してはいたのですが、帰宅と共に大きく体調を崩し、思わぬ夏の暑さや、薬の副作用までも加わって、実に半年以上身を持て余す難儀に遭遇。
 しかし、それにも懲りずに、今年も学会を挟んで重要な所用をこなすために、先月やはり四日間東京へ出向きました。 今回は、前回の轍を踏まぬよう、飛行機を使い、宿も贅沢に取り、可能な限り行動範囲を狭め、無理をしなくても済むところは一切無理をしなかったことが良かったのでしょう。 今回は何とか一ヶ月ほどの体調の不良だけで回復しました。


 このように不様な体を引き摺りながらではありますが、本当に多くの方々に助けられて、どうにかこうにか山田盛太郎文庫中の付属資料の整理と映像化の目処が峠を超え、眼下にゴールが望めるところまで到達致しました。

 おもえば、いろんな方を訪ねて行き、「おい、お前、まだ山田盛太郎なんかいじくっているのか!・・・」と情けないお言葉を幾度となく頂戴し、返す言葉を何度も失いました。
 また、若い研究者と話していても、山田盛太郎について読んだことはおろか、考えたこともなく、私に話されてただただ怪訝な顔で困惑する経済学部助教授達を幾人となく目の辺りにし、暗澹として会場を後にしたことが、これも数え切れません。


 そんな想いから、半ば意地でサイトを立ち上げ、細々とやり始めた山田文庫の整理に伴う資料の映像や報告は、図らずも数年を経てしまいました。

 しかし、近頃、思い掛けず山田先生についての論考を掲載された書籍や、雑誌についての情報などを寄せて頂いたり、時には小生のサイトなども見たとのお話しも頂戴致しました。
 今や、山田文庫の付属資料の整理も、かなり進捗し、映像資料の目処もそこそこたったので、全体ではなく部分的なデータをこれ以上闇雲に提示することが逆に疑問となり、この辺でこれらを総て削除することにしました。
 本当に興味をお持ちの諸兄姉には、部分的な情報はもう必要がないであろうし、この先は、直接文庫にお出向きの上、資料を御覧頂くほうが良いと考えております。
 本当はもっと早い段階で削除を考えていたのですが、作業量を考えると気力が萎え、サイトを開くことが億劫になり、ダラダラと今日に至りました。


 このご挨拶も、一ヶ月前からの予定で、作りかけておりましたが、前述の体調不良と、突然ディスプレイが写らなくなる事故で中断。 今日ようやく書き上げ、掲載に至りました。

 思い起こせば、この数年間、体調不良と、突然の入院等の不測の事態に苛まれ続けましたが、幸運にも恵まれ、これまで本当に楽しく幸せな時を過ごすことができました。
 薄暗い書庫で、まるで先生から一日差しでお話しをお聞きしているような経験を幾度となく重ね、ハッとして身が引き締まる位の興奮と、先生の文字の奥に潜む私の想像を遙かに超えた天の高みに触れて息を呑む日々を重ねることが出来ましたことは、真に楽しく、なにものにも代え難い喜びであり、学問に身を委ねられることが、決して当たり前の出来事などではないということをひしひしと噛み締める至福の時間の流れに身を置くことが出来ました。

 この間、多くの方々には身に余るご厚意を賜り、また、忝くも思いもしなかったご便宜にも浴し、身の光栄ここに極まりました。 ご指導頂いた山田先生と、辛抱強くお待ち頂き、その間自由に作業をさせて頂いた龍谷大学に対し、真に感謝の念に堪えません。

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2014年3月17日 (月)

『猶太人問題を論ず』の「譯者はしがき」(2014,03,27加筆)

 Marxが『独仏年誌』に書いた「ユダヤ人問題によせて」と 「ヘーゲル法哲学批判序説」は所謂初期マルクスについて論じる場合の重要な文献であることは今更持ち出して云々する必要もあるまい。 戦後よく引用されている主な翻訳についてはつぎのようなものがある。

『ヘーゲル法哲学批判序論』 付 国法論批判その他
 真下真一訳 初版1970年8月、国民文庫(30)、大月書店発行
 【注】此の書物に収録されているものの表題は「ユダヤ人問題のために」と訳されている。

『「ユダヤ人問題によせて」 「ヘーゲル法哲学批判序説」』
 城塚 登訳 初版1974年3月、岩波文庫(白124-1)、岩波書店発行

 最近刊行されたものの中では、次の書目をあげておけば良かろう。

『新訳 初期マルクス』 ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判‐序説
 的場昭弘訳 2013年2月、作品社発行

 最初の二冊は引用される場合に良く引き合いに出される書物でお馴染みのものであり、最後の一冊は最近発行された書物であるが、『独仏年誌』掲載のMarxの二つの論文のオリジナル映像記録が資料として巻頭に掲載されている(PS:独仏年誌掲載のオリジナル論考は全て左から右へとページが進んで行く、アルファベットであるから当然である。然るに的場氏の上記書物は日本語式に合わせた右から左への配列になっており、アルファベット表記に基づく書物としては極めて不自然であり、当然読み辛い。せっかくのオリジナルを掲載し、研究者への便宜をとお考えであるならば、当然この資料は巻末に配置、または別冊として、左始まりの論考として、オリジナルな形を保存し提示するべきであると思う。また、的場氏による1848年初版のブルクハルト版『共産党宣言』のオリジナル映像を収録されておられる同氏著の『新訳 共産党宣言』においても同じように折角の資料[ブルクハルト版『共産党宣言』]がやはりここでも右始まりになっており、大変残念でならない。両書共に第二版においては是非ともこの点へのご一考を賜りたいものだ!論及する原典は如何なる状況下にあろうとも、その原型なるものへの配慮は一に慎重且つ細心であるべきではないだろうか。)。

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2013年10月 9日 (水)

改造社版『経済学全集』目録

 龍谷大学山田盛太郎文庫の蔵書を整理している時、改造社版の『経済学全集』の月報を見付けた。

 この月報は改造社版『経済学全集』(全66巻)の全構成についての一覧表であった。
 記事の隅に最終配本となる『経済学史』の予告(全66巻の内の66回目の配本分)があることから、その一つ前の65回目の配本分の月報である。(参照、注1) 従って、この一覧表が現実の具体的に刊行されたであろう書物であったはずだ。
 当時の日本の社会科学の最前線を担った方々による改造社版の『経済学全集』ではあったが、興味のあるほんの一部分の配本分については知っていても、その全貌、つまり全66巻がどのような題名でそれを誰が執筆していたのかについては恥ずかしながら不勉強のためあやふやな知識しかもっていなかった。

 私自身の参照に便利なためと、もしこれを必要とされる方がおいでの場合を考えて、映像を撮り、コラム上の写真キャビネットの中ではなく、ネットから画像を引き出しても十分に耐えられるようにできるだけ大容量のデータとして本文中に埋め込んだ。 不幸なことに、このコラムには1,000KBを超えるデータを送ることができないのでぎりぎりいっぱいの964KBでUP。(参照、注2)
 Windowsの場合、画像を左クリックされると大きな画面になります。

【注1】 些事ではあるが、目録によると第34巻と第47巻に巻数カウントのダブりがあるので留意されたし。
【注2】 ネットへのアップロードにあたり、容量制限をクリアーするために画像容量を小さくするべく月報画像のふちの余白部分を少々削りました。 そのため、オリジナルの月報とは些か異なることになりますが、文字が小さく、かつ焼けて見難い目録のデータをできるだけ高い画像容量でUPするためにとった措置ですのでどうかご海容を賜りたい。

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2009年7月12日 (日)

廣松渉氏文献資料-1 (編年体による整理)[2012-01-14 改訂]

 図書館やネット上において、廣松渉氏の著作物を探そうとすると、その数のあまりの多さに、また驚くほどの広い範囲に、これでもかと次から次から出てくる様々な論文(集)や論稿、対談(本)などの書物だけではなく、多種多様な雑誌類や新聞の記事等に掲載された夥しい数の書き物の大洪水を発見し、唯々途方に暮れて、手をこまねき、言葉も失って、一体どこから手を付けて良いものかと思案の末、思わず立ち尽くしてしまう。

 かくも膨大で多方面にわたる書き物の巍々たる大山塊を押し立て、様々な口碑伝説を流布させて、我々をこの世に置き去りにされたまま、1994年5月22日に廣松氏は鬼籍に名を連ねてしまわれた。

 残された我々にとって、体系を志した彼の業績を理解しようとするとき、彼の弟子達によって周到にかつ懇切に用意された大部な『著作集』や『コレクション』の類も、廣松理論に慣れ親しんだ方々にとっては気配りの利いたそれらの書物であるかもしれないが、新たに彼の論稿を繙き始めた者にとっては、そのような丁重なお膳立てが設えてあっても、まるで自分が大海に飲み込まれた小舟のように不安を感じうろたえずにはいられない。
 しかし、それでも彼の世界を渉猟し、彼の求め已まなかった本質へ何とか迫ろうとするとき、個々の初出の論稿から様々なプロセスや版を経由して辿り着いた最終版までの総ての資料を手元に集めることは極めて至難の技であり、かつそのような余裕を捻り出すことは難しい。我々にとっては、初心である廣松渉を理解するためには何が核心であるのかを終始忘れてはならず、小道に迷い込むようなことは避けなければならない。
 言い換えれば、まず、慎まねばならないことは、あまりにも細かく書誌なるものを追求し出すと、肝心の廣松渉が霞んでしまい、廣松渉が追求してやまなかった彼によって提起された問題の核心本質を捉えるという本来の目的を喪失し、容易に大きく道を外れてしまいかねないことへの危惧であろう。
 そこで、多少の取り残しが有ったとしても、彼の活動の全体が見渡せる視点を確保する上から、以下、『廣松渉文献資料』の1から5までの枠組を作り、彼の求めたものを全体として捉えるための枠構造を作ってみることにした。
 これにより、ただ闇雲に読み進む不安から解放され、文中に散見する廣松氏からの指示と、当枠組からくる作品の位置情報を頼りに、少しでもより近くを射貫くことが出来はしないだろうか、との思いでこの資料達は作られた。

【PS】上記の通り、これはもともとは当稿筆者の手控えであったものが膨らんでできたものであり、作成にあたっては出来るだけ意を注いだつもりではあっても、思わぬ書き写し間違いや、思い違い等々の誤りが在ることをただただ恐れます。 当稿をネット上に公表するに当たって、これらをお読みいただく場合、この点へのご理解とご寛恕をどうか賜りたい。 従って、追加の情報が必要になった時や、誤りに気付いた場合、さらに改訂が必要となった段階で、お断りをしないでその内容を加筆または修正を加えるつもりです。 また、ネットによる参照可能な私的手控えであるとの前提からも、内容への論評は別稿に委ねられるべきであり、廣松氏の著作物全体への鳥瞰であることを唯々旨とした。
 当初はコンパクトなものを志して編集に入ったものの、最終的にできあがったものは全く正反対の極めて大部なものへと成長してしまったことに対し、内心忸怩たるの感を禁じ得ない。 しかし、廣松氏の作品があまりにも多いこと、どうしても併記しておかねばならない事共が山積し、あまつさえ編者の能力の至らないという不幸が重なったために、このような結果と相成りました。 ここでは、廣松氏の御遺徳のに縋り、当稿をご覧いただける諸兄姉がもしもおいでであれば、偏にそのご海容の程を唯々期するのみであります。
 泉下の廣松先生も何卒お許し下さい。

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2009年7月11日 (土)

廣松渉氏文献資料-2 (『廣松渉コレクション』)[2011-05-12 改訂]

 『廣松渉コレクション』(全6巻)は廣松渉氏が逝去(1994年5月22日)された翌年(1995年)の3月から刊行が開始された。

 巻末にある『廣松コレクション』への説明文は次のように書かれている。
 「生前の精力的な活動による膨大な数の論文・講演記録・対談記録等々の中から重要と思われるものを精選し、テーマ別に整理・編集することによって、廣松理論の全体像を俯瞰する道標たらんとして企画したものです。」
 また、第一巻の編者、山本耕一氏も同巻末の「解説・共同主観性と構造変動」の冒頭に以下のような一文を残した。
 「本巻は、廣松渉の体系構想と密接に関係する諸論考をおさめている。本巻の編集の方針は、『廣松渉コレクション』の他の諸巻と共通である。すなわち、廣松渉の既発表の論考のうち(1995年1月の時点で)単行本に未収録のもののなかから、表題と直接に関連する論文および講演を編者・山本耕一の責任において選定し一書としたものである。」
 第六巻の編者、忽那敬三氏もまた、巻末に次のように記述された。
 「本巻では、廣松の見解ないし問題関心が比較的直截に現われていると思われるそうした座談のうち、これまで単行本には収録されてこなかったもののなかから、本巻の紙幅等を考慮しながら、その制限内でできるかがり内容上の拡がりをももたせるべく、編者の責任において九篇を選び出し、一書とすることにした。」

 上記の説明にもあるように、当「資料-2」は「資料-1」の個別的諸著作だけでは漏れ落ちてしまう重要な著作物を補うことで、未完に終わっている主著『存在と意味』への重要な道標を補うべく、廣松氏ご存命中には刊行には至らなかったけれど、内容的に重要と思われる雑誌論稿等を分類し編集することでより多くの人々の吟味に供された貴重なシリーズであり、編集者諸氏の労を労いたい。 我々はこの『コレクション』によって、さらに廣松氏の業績の根幹への道を分け入り、その本質を掴む上で、いうまでもなく重要な指針を得たことになる。

 以下、『廣松渉コレクション』(情況出版)の目次を掲げる。

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2009年7月10日 (金)

廣松渉氏文献資料-3 (『廣松渉著作集』)[2011-05-11 改訂]

 廣松渉氏による刊行物は、多くの書物がそうであるように、雑誌原稿をその元版としてもち、そのままか、編集を加えることで新たな書物がつくられている。 この場合、大出版社や発行部数の多い雑誌は図書館などに所蔵されている場合が多いが、小出版社や発行部数の少ないもの、新聞(とりわけ大学新聞などでも)はオリジナルに触れようとすると困難を呈することが多い。
 『廣松渉コレクション』(情況出版)の次に刊行された『廣松渉著作集』(岩波書店)も編集者諸氏による膨大な労力の注入に基づくテキストクリティークを経て世に送り出された。 この『著作集』のおかげで、私達は廣松理論の全貌を容易にかつ正確につかむことができるようになった反面、却って難しくなってしまったもう反面をも併せ持つことになった。
 この文献資料3も「廣松渉文献資料」の1と2とを繋ぐことで廣松氏の全貌を知るための一つの手控えを作ることを目的としている。

 『廣松渉著作集』は岩波書店から1996年6月から1997年9月にかけて刊行された全16巻の豪華で大部な著作集ではあるが、決して彼の全文献を網羅しているわけではない点に留意が必要である。
 また、当著作集を読む上で注意しなければならないことは、彼が良く用いた方法としての対談や共同執筆等の在り方が、当著作集においては廣松氏の執筆部分のみを掲載しているために(個人の著作集、全集を編集する場合はやむを得ないのかも知れないが)、氏が目論んでいたであろう共著ならびに対談における本来の意図を汲み取る上からも、読者は必ず元の文献を参照すること、対談に関してはその書物を直接に読むことを心掛けなければならない。
 さらに、本来彼によって独立した書物として刊行されたものを、この著作集を編集する時点で、分解し、表題にあわせて別々の巻に分けて掲載したことも、やはりオリジナルを参照する労を省くことは避けなければならない。

 以下、『著作集』、並びに同『月報』の目次を掲げる。

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2009年7月 9日 (木)

廣松渉氏文献資料-4 (問題点の拾遺)[2012-01-12 改訂]

 当『文献資料-4』(問題点の拾遺)においては、『文献資料』の1から3までに収めることの出来なかった資料と、1から3だけでは十分に捉えきれない廣松渉を理解するうえでのいくつかの問題点を拾い出しました。

 雄編である主著『存在と意味』については、『文献資料-5』において展開することにしたため、この『文献資料-4』からは省かれた。

【お詫び】2011/05/11現在、上記『文献資料-5』は現在筆者の健康上の理由のため未だ最終稿に至らず、長らく“下書き”状態を託っております。筆者の健康回復後には調整の上公開を予定しておりますので、何卒ご高配の程宜しくお願い申し上げます。不悪。

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2008年12月27日 (土)

山田盛太郎先生文献集

 昭和55年(1980年)12月も押し詰まった27日夜、北村先生から電話を頂いた。 山田先生がお亡くなりになったのだと。 先生はこれから吉祥寺のご自宅へ伺われるが、年末のこと故、私は家で待機するようにとのことだった。

 何時のことであったろうか、大橋先生から呼び出しをうけて先生のご自宅へ伺った。 山田先生の文献目録と講義録を作れとの仰せだった。
 山田先生はまだお元気だったので、謂わば二人での極秘作業が始まった。 時々大橋先生のご自宅へ伺っては進捗を報告し、資料の突き合わせや、さまざまなお話をうかがいながら、先生からは山のようなお教えを受けつつ、二人だけの内緒の『山田盛太郎著作集』はゼロックス版でやっとのことで形を成し、目録も同時に完成した。 が、私達は山田先生の叱責を恐れたため、この著作集は二人だけのいわば秘密の著作集になってしまった。
 先生が逝去されてから三年後、岩波書店から本物の『山田盛太郎著作集』の第1巻が書店に並び、積み上げられたその前に佇んで眺めているだけで本当に嬉しく、かつ本が眩しかった。

 岩波の『著作集』をはじめ、先生の文献目録は既に公開され、人々の共有するところとなっているため、私がこのコラムで敢えて公開することもあまり意味がないのではと思ったが、先生のご命日を前にし、自らの命の灯を考慮すると、もう一つくらいあっても特別に先生にご迷惑をお掛けすることも無いのではと、冥府での大橋先生のとりなしを勝手に期待しつつ、ここに先生の目録を掲げる。

【お詫び】もし、ここまでお読み頂いた方には恐縮ですが、ここまで書き進んで体力と時間に自信が無くなり、以下の完成に少々お時間を下さい。


不悪!以下工事中 

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2008年12月 9日 (火)

大橋隆憲先生文献集

 大橋隆憲先生には、ご自宅(京都)に近い衣笠、金閣寺辺りの蕎麦屋の二階で山田盛太郎先生からご紹介を受け、初めてお目に掛かったのでした。
 それ以来、先生には本当のお弟子さん以上に一方ならぬお世話になり、あふるるばかりのご厚意を頂きました。 手短な文ではとうてい盛り切ることの出来ない程のお教えと、思い出がございます。
 統計学という専門を遙かに超える分野をご専門とされておいででしたが、経済学全般は言うに及ばず、仏教を始めとする宗教学、民俗学、社会学というさまざまな分野へのみなぎる好奇心と知識欲に惹かれて押しかけさせて頂きましたが、どの程度私が咀嚼出来ただろうかと思うと甚だ心許なく、今も先生に合わせる顔をもち得ていないことに、ただただ恥じ入るばかりです。
 先生がお亡くなりになられ、偲ぶ会の後、奥様から色紙を頂きました。 そこには先生の手になる次のような言葉が書かれていました。
 「恐慌を展望せずして経済を学びたるという勿れ」
 この文は書斎の正面に掲げられている。 この書は時に私のぶれそうになる姿勢を問いただし、叱咤しつつ、懐かしい先生の声を時々に届けてくれる。

 【注】従って、当稿は適時補筆訂正が加えられ、内容に変更が生じるものであることをここに書き添える。 従って、編集上の責任は全て筆者のものである。

以下、工事中!

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2008年12月 8日 (月)

白杉庄一郎氏文献集

 学生の時、長谷部文雄先生の好意に甘え、『資本論』の研究会へ出させて頂いたことに端を発し、先生が亡くなられるまで、誠に得難いご好意を賜ることが出来た。
 あるとき、長谷部先生が一冊の本を示され読んでみろ、と差し出された。 白杉庄一郎著『価値論の研究』との出会いであった。 このとき、私と白杉庄一郎氏との出会いが始まった。
 関西の学問ならびに思想風土はその発想の独自性を尊ぶことにもって第一の特色とすべきものがある。 権威におもねることを極度に卑しむ気風が今も脈々と流れ続けている。 しかし、その独自性とは一歩踏み外すと単なる独り善がりに堕してしまう恐れがあるため、他方では議論を尽くすことをもまた尊ぶのである。
 重田澄男氏、吉村達次氏を介して私は再び白杉庄一郎氏と邂逅することになった。 それが、この文献集を編集する切っ掛けである。 思い出深い氏の書物を繙くことに、ある喜びを禁じ得ない。

 【注】白杉庄一郎氏の業績を追いかける上でも、やはり彼の文献目録を欠くことは出来ない。 当稿は編者が彼の業績を読み進んでゆく上で、その論稿の位置を知るために編集されたもので、読み進んでゆくことで正確を期するために適時補筆訂正が加えられ、内容に変更が加わることに対し、ご理解を賜りたい。 故に、編集上の責任は全て筆者のものである。

 
以下、現在工事中!

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