文献引用時のイライラ

 引用文献を記載する時、一瞬、複雑な思いに駆られることがある。

 邦文文献の場合、著者によって何回か版を変更されたり、さらに著作集・選集・全集(著作者が生存中に編集される場合もあり、没後に編まれる場合もある)があったりと、同じ著者による同一の文献に対し、幾つかの異なる版本が存在する場合がある。
 これらの場合、どの版本を引用文献として選ぶのが良策なのだろうか、と時に悩む場合がある。
 引用者または読者がどの版を持って互いに向き合っているのかは、時として不明なのである。執筆者は、自分にとって一番良い版本を引用文献に当てたいであろうし、読者にとっては手近に所持している版本で引用文献を確かめたいはずである。

 とりわけ、翻訳文献からの引用をする場合は一層複雑な思いに駆られる。基本的には外国文献の場合は原語版の頁を表記すれば全く文句が無いように見えるが、原語版といえども邦文文献と同様に沢山の版本があり、どの版を指せば良いのかが同じように問題になる。
 翻訳文献の場合、出版社や翻訳者によってもどれを選択するべきかという問題があり、幾通りもの版があれば、訳文だけの問題ではなく、頁数も異なる場合があり(文庫化されると訳文はほぼ同じでも、頁数が異なる場合がある)、勢い、主なものは全部買い込んでそれらを表記すれば良いではないか、と言われると、執筆者と読者は出版される毎に、ことごとく様々な版本を買い揃え、いざという時のために備えねばならなくなるし、執筆者も、たった一言引用するのに、何冊もの異なる出版社・翻訳者の頁をくどくどと書き連ねなければならなくなる。イライラが募るのであるのであるが、論考を通じて執筆者と読者との間のコミュニケーションが成立するためには、引用文献の選択は本文以上に難しいものがある。書く側にも、読む側にも、互いに自分にとって最上の版本があるために、この一点で、コミュニケーションに支障が生じるのは何としても避けたいという気持ちがある反面、自身が相応しいと思っていない版本が取り出されると、どうしても舌打ちをしたくなる。

 しかし、悲しいもので、気がつくと書斎には同じ著者の版の異なる同じ文献(邦文文献や原文版、ならびに翻訳書に至るまで)が書棚に鎮座されて、小生からの呼び出し備えて今か今かと待機しておられる。円滑なるコミュニケーションが必要であるとの思いがそうさせているのだ。
 執筆者には読者に対して、自己の論考への十全な説明責任があるので、例え苛つくことがあっても、ここでは丁寧な対応が何よりも肝要となることから、健気にも、家庭平和を祈る一方で、書肆へと暇を見ては足繁く通わねばならなくなる。

 また、長生きをすると、時として溜息をつくことがある。
 三十年位前では、この書物を引用文献として掲げておけば、大方はそれを納得されていたのだけれど、最近では、最早、それが些か通用しなくなり、新しく出た人気(?)の版本をどうしても用意しておかなければ引用箇所の特定に手間取ることがあり、渋々新しい版本を買うためにまたもや書肆へと出かけなければならなくなる。
 ある時、小生は、運悪く内に見つかり、同じ書物を一体いくら買い集めると気が済むのかと、説明を求められ、困惑の縁で狼狽えた。

 しかし、如何に困惑の縁で、溺れもがこうとも、一時の堪忍を渾身の思いで乗り越えさえすれば、時々ニンマリとする瞬間が必ずやってくる。
 時代を問わず、人様の書かれたどのような論考を読むときでも、引用文献の該当箇所へ簡単に行き着くことが出来るし、コミュニケーションでてこずることから解放されるのである。

 時に、用意しておいて、以外に役に立ったものがあった。
 山田先生の『分析』に対する各時代の様々な論客による論考を読むとき、時代によって利用された引用文献の該当箇所へと簡単に辿り着けるように『著作集』版の第二巻(『日本資本主義分析』)に『講座』分冊、旧版『分析』、岩波文庫版の各頁を色を変えて脚注として頁下部の空欄に書き込んで見ると、最初はあまり期待していなかったけれど、これが意外にも便利なものであった。お時間のある方は、是非お試しください!

 更に調子に乗って蛇足を付け加えると、山田盛太郎先生の資本論はエンゲルス版なので、探し巡って神戸の古書肆で先生ご所持の版より一年後のエンゲルス版[オットーマイスナー最終版]を見つけた。この時は、飛び上がるほど嬉しかった。山田先生の書物を読むときは役に立った、後年、このエンゲルス版は龍谷大学の山田盛太郎文庫所蔵のエンゲルス版『資本論』の映像資料を編集する時には大変重宝した。

2019年4月19日 (金)

脇村義太郎氏の回想録を読んで

 出版以来気になってはいたのだけれど、購入順序の点でいつも後回しにしてきた書物があった。
 岩波書店から出版された脇村義太郎氏の随想書類である。

 刊行順に書き上げると次のようなものだ。
 『東西書肆街考』岩波新書(黄版87)1979年(昭和54年)6月
 『回想九十年 師・友・書』1991年(平成3年)9月
 『二十一世紀を望んで 続回想九十年』1993年(平成5年)12月
 『年譜・著作目録』1994年(平成6年)12月
 『わが故郷田辺と学問』1998年(平成10年)4月

 脇村氏によるこれらの書物を、私は山田盛太郎先生の同時代史として読んだ。
 もちろん、これらの書物は、脇村氏の個人的な記憶を源泉とした記録で、突っ込んだ事実の確認と検証に対しては、それらは読者の仕事として尚残るわけではあるが、同時代の様々な様相を脇村氏の目と記憶を通して、改めて認識するという意味では貴重な書物であり、これら五冊を一気に読んだ。

 脇村氏の回想録や随想、対談については、小生が判っているものとして、他に下記の二つの書物があるが、現時点では小生は未読。
 『脇村義太郎対談集ー産業と美術と』1990年(平成2年)12月(日本経営史研究所)
 『東京湾は世界一 湾を守れ!』1996年(平成8年)月不明(岩波ブックサービスセンター

2019年4月 6日 (土)

新しいPCの導入

 この一か月の間、ネット利用に関わる幾つかの不安が重なり、諸般を考慮し、ネット使用の安全性の観点から、推薦されたWin.10版のPCを新たに導入することにした。
 健気に働いてくれた自作のWin.7(Ultimate)機はネットから外し、研究用の物書き機として愛用し続けることにした。これで、ネットに関わる不慮の事故から種々のデータと文書を保護できるし、安心してものを書き進めることが出来る。

2019年2月10日 (日)

旧記事の削除

 昨日から当日記サイトと、もう一つの日記サイトの昨年末の再開以前の旧い記事を削除した。 当サイトの日記記事は積もりに積もって約三百項目程が存在していたためであろうか、niftyのサーバーからは一度に掻き落とすことが出来なかった。 ある一定の削除作業を進めると、このPCを以てしても画面が固まり、時に全く言うことを聞かなくなるため、結局何とかして固まった画面を閉じ、いっとき時間を空けて再開の上、再び固まりそうになると急いで閉じて、やっと四回面にして漸く昨年末の再開以前を先程総て消し終えた。
 今回の削除は、特に深い意味は無いのだけれど、まあ、所謂気分の一新とでも言えば良いのであろうか。 今年への期待願望を込めてとでもしたら良いのであろうか。
 その他のサイトの記事も削除をした方が良いか、或いはサイト自体を整理した方が良いのかの判断がいるが、これはもう少し考えてからやろう。

 用心していたのだけれど、三日前から風邪を引き、寝込んでは起きて、ティッシュの箱を抱え込んでの削除作業になったけれど、ようやく目的を達した。

2019年2月 6日 (水)

全集・著作集は如何にあるべきかを問う

 もう終わり、と言いながら三つ目を書くと、それは大概駄作と昔から相場が決まっている。
 だけど、今朝起きると、どうしても、これも書いておきたくて、些か逡巡したものの、やはり書いてみよう(老人はこのような勿体ぶった書き方をする!これは要注意である!)。

 もう十分生きてきたので、内外を問わず、全集や著作集なるものは数限りなく手に取ってきたし、小生の苫屋の書斎にもいくつかが鎮座されている。

 ただ読むだけであるならば、特に目くじら等を立てないで、ただ味わえば良いだけなのだけれど(目が眩むような高価さを除けばである)、研究用資料としてこれを手に取る場合、大いに嘆息を禁じ得ない!

 何故ならば、まず、引用文献の選択肢が余分に一つ増えたからである(多少、私の我が儘があるが)。 手持ちの初版ものから始まる既版の書籍であれば、改訂や増補が影響しなければ、頁数は概ね変化しないのであるが、全集や著作集版は申し合わせたように原本と頁数が変わるため、どうしても財布に哀願して、何とかして我が儘を聞いてもらわねばならなくなる(まずは、該当する新しい頁数を把握するために、である)。
 さらに面白くないことに、原著者の手控え本によって改訂したり、言い回しを原著と変化させたり(漢字や表現、仮名遣い等々)と、編集者は勝手なことを言うが、一番肝心な何処を改訂したのか、何処の表現を現代風に改めたのか、発見されたどこのミスプリを改めたのかについては、大抵全く示されていないことが多く、些か失礼千万(著者に対しても、古くからの読者に対しても)ではなかろうか! 最も驚愕に値するのは、原著の先生がご存命であればと書き付けて、時代の推移により、先生ならばここはこうしたであろう、等と身勝手な編集を加えられるのには本当に辟易し、研究者としての資質を甚だしく疑う。
 ドイツ語の所謂髭文字が新しいものに置き換わっているのは、当初は読み易くて楽ちんではあるが、髭文字とて、慣れれば結構それほどには苦にはならない(だだし、老人は視力が弱っているため、時々読み間違いがおこり、一時意味不明に悩んだりするのは、個人的な不勉強の祟りと言うべきであらう)。

 全集や著作集を世に出そうと企画された理由は、ただ、著者を顕彰するためだとか、その書物が手に入り難くなったから、という理由ではあるまい。

 編集諸氏に問いたいのは、原著者の一体何を後世に伝え、引き継ぎ、引き渡すために、必要に駆られての全集や著作集の企画・編集であったのであれば、どのようなものが後世・後学に対し、遺されねばならないのかという一点についての存念である。

 歴史的に重要な書物(遺産)は、そのどの版を先ず後世に遺し示すことが大切なのか、原著者が遺した個人的な記載(自家用本への書き込み等)や、後々の版で公刊された変更箇所等々を逐一明示することで、後学の人達に原著者の示したかったことへの肉薄の径をどう探らさせれば良いのか、更なる学問の発展に資するために、そして何としても後学に示し、伝えなければならない著者の息吹とはどのようなものであったのかをどうやって示せるのかという点での原資料について十分な検討が編集者に求められている。
 だから、一般的には、原書籍が初めて世に問われた初版を原頁通り、書式も原書籍通りに復刻し、知り得た情報を脚注として巻末か、別冊子に編集する努力が本来有るべきではなかろうか(場合によっては最終版が最適となる場合もある)。(私は旧字や旧仮名遣いは苦手で困る等という輩は、そもそも初手から学問をする資格はありません。何のために辞書があるのか、君は何のために今迄学問をしてきたと、自問自答をまず何よりもされるべきであろう。)
 (ただ一言付け加えると、複雑で日数をたっぷりとかけなければならなくなると、どうしても高額な価格からは逃れられず、出版を事業として行うには採算上問題が多いため、出版側と編集側はお互いに妥協が必要となるという出版社の指摘があることにも留意が必要かも知れない。しかし、後世に示すためには、どうしても乗り越えられない壁とは思えない。双方共に意識を転換すれば、乗り越えられないはずは無い、と愚考する。)

 嫌味を最後にもう一つだけ書き記すと、原著者が意味を持たせて作った筈の著作物の空白域が大抵の全集や著作集版では無視されて、ノッペリとした面白みの無い気の抜けた紙面に成り変わっていることに大変な失望を禁じ得ないことである。
 著者が注意深く提示した余白域が存在するとき、編集者が遺し伝えなければならないことは、まず原著者の息吹であり、原著者の鼓動を感じさせるこの重要な構成を読者が捉えられるようにしなければならないことで、消し去るようなことは、断じてすべきでは無い。 特別に余白域を著者が設けた場合は、それは立派な構成要素として捉えることが要求されているのであって、ただの印刷上の空白域・余白では無いことを改めて認識しなければならない。

 なにをおいても汲まなければならない論点は、原著者の意図であり、伝えたいと原著者が願ったことへの配慮であろう。 これが他の一切合切よりも優先すべき最重要点であること、そしてこれが唯一の目的であるということを、改めて心に刻むことでなければならない。
 そしてなによりも、そのことが著者自身が何よりも望むであろう唯一の論点であり、全集や著作集を繙く読者にとっても編集者に切望する唯一無二の論点でもあるのだから。

2019年2月 5日 (火)

古書市会場で考えた

 昨日、記事を書いて床についたとき、もう一つ書き残したことに気付いた。 この寒い夜中に起き出して書き足すのも癪だ。 そうだ、もし、明日朝覚えていたら書けば良いではないか、思い出せなかったとしたら、それは大したことでも無かろうて、と言い聞かせて、昨夜は妙な安堵をして寝入った。 考えとは裏腹に、自分は恐らく覚えてなんかいるまい、どうしても書かねばならぬのなら、自分の性格からすると、何時であろうと、どんなことをしてでも起き出して書き終えるはずだからということが分かっていたからである。
 ところが、目が覚めてみると、意外にもしっかりと覚えていた! いやはや、私も些かしぶとい!

 話はこうだ!
 この十年近く前から、大きな野外での古書市で、旧家から出たであろう厖大な数の古文書の山が、あちこちで砂埃の中で悲鳴を上げているのに気付き出した。
 大学の研究室や、研究所では、保管場所も手狭になったり、教務からは嫌味を言われ、大学からは紙の山等にビタ一文の予算さえも振ってはくれず、就職先が気になる院生やポスドクの若者達からも、余程のことがない限り、地味で根気が必要であり、成果の保証が全く付いていない、訳の分からない和紙の山などへの関わりを嫌うようになってしまっている。

 何等かの事情によって、古文書達は、斯くの如き埃舞う路頭に追いやられ、奇特の士を往来に切望せねばならなくなったのである。
 勿論、様々な玉石混交の体を成す総ての古文書達に保護を与えることなど到底不可能ではある点は小生も十分に了解しているけれど、研究者やその卵たる者は、鍛えられた(あるいは鍛えられつつある)学識を駆使し、少しでも資料のもつ個別的な意味を読み解き、あるものは記録に留め、保護しなければならないものには保護を加え、時に後進のための教材にさえ役立て、やろうと思えば出来なくもなかろう。
 目の前で、消滅の危機に瀕し、徒に風に遊ばれて紙箱の中で怯える古文書達の墨痕が、舞う砂埃の中で、寂しげに私に悲痛な問い掛けを続ける。 私は自らの無力を恥じつつその場に立ち尽くし、暗澹たる気持ちが払っても払っても押し寄せてくるのをどうしようもなく眺めているしかない自分が腹立たしくなる。 (他方では、これらが甚だ高価で売り出されていることも、ある本質的な空しさを一際増大させている。)

 古文書達だけでは無い。 最近の野外で催される古書市では、売れなくなったかつての歴史的に重要な学問的文献でさえ、何の惜し気も無く、青天井の下で二束三文の一冊100円で山積みされ、客寄せの材料にされている(この機会に新しい庇護者に巡り会えなければ、彼等は書物としての役割を解かれる。だから、彼等には庇護のためのテントは初手から与えられていない。)。 予算の乏しい私などは、その餘慶に与るべく、セッセと出向き、昔買い損ねた書籍を探し、手目の良い重要書を研究予備の為に重いのを我慢し、歯を食い縛ってでも買って帰るには良い機会ではあるが、しかし、本来はこれらをもっと学生達へ行き渡るような何か別の手段や方法は果たして無いものであろうか、と何時も考える。(他方では、書物が来ても、指導できるまともな教員がいなければ極めて意味が薄いのだけれど!)
 しかし、先学が心血を注ぎ紡いだ重要な学問的遺産が、これまた、裁断と焼却の瀬戸際で空しく太陽を仰いでいるのを見るにつけ、悲しみが胸を突く。 もし、急な雨がきて、濡れでもするようであれば、間違いなく彼等はこの世からその書物としての姿を消されてしまう。 立ち竦み、ただ、溜息をつく。 これらの重要な学問的遺産が、何とか、誰か向学の士に無事届いて欲しいと、切に願わずにはおれない!

 人は嗤うかも知れないが、恩師の書物などは、嘗て、古書市で出会う度に、良いものは可能な限り、我が書斎までお出でを願った。 同じ書物を十何冊も買って、お出でを願った。 しかし、絶版になっている恩師のこの書籍は、実に様々な用途があり、この総てが現在使用中である。 次に出会う機会があれば、もう一二冊、是非お出で願おうと思っている。(恩師の書物が書架や台の上に並んでいるのに出くわすと、書物が話し掛けてくる、すると私は彼等をどうしても書斎にお招きしてしまう。 時に、どうだろう、と思うことも無くもないが、どうもこの癖だけは生きている限りどうしても治りはしないのである。)

2019年2月 4日 (月)

書肆の居心地の悪い世界なんて・・・

 所用があって大阪に出た。 用を済ませ、行きつけの古書肆に出向いた。 丁度二時過ぎぐらいであっただろう。
 書肆に近づくと何故か何時もと違って、閑散としていることに気付いた。 あれ、今日は臨時休業かな?と、思って入り口のシャッターに貼られている小さな文字が書かれている紙片に顔を近づけて読んでみると、今日の午後に当店は破産手続きを行い、某管財者の管理下にある云々と書かれていた。

 大阪でも小生が頼みとする有力な古書肆がもう幾つも姿を消した。 東京の研究会のついでに良く拠る神田や郊外の馴染みの書肆が、もう幾つも姿を消すか、その営業が変化しだしていて久しい。

 古書肆の方々と店先で話し込んでいると、どの書肆も一様に、「書物が売れなくなった」、「時に、一日中、学生の姿を見かけないことがある」、オマケに言うに事欠いて「やってくるのは、貴方のような老人くらいのものだ」というのだ!

 この現状の一番の極みは、社会科学系、経済系、とりわけMarx系が棚から動かないのだそうだ! だから、年寄りでも私たちがくると、少しは売れる!
 神田に関わらず、古書肆を歩けば、たまに来るからであろうか、上記の学系の書物が潮が引いて行くように、出向くたび毎にその棚数を減らして行っているのがよく分かる! 時に、全く姿が消える!!!

 まさか、多くの学生が、デジタル書籍を読んでいるか、図書館に入り浸っているようにも思えない。 早い話が、一体どの様に勉強しているのだろうか?、ヒョッとして今の大学では書物はもう勉学の手段ではなくなったのであろうか!!!

 そのような後ろ向きなことを考えながら、家路についた。
 帰って、書斎に入ると、小さな書店が出来そうなくらいの書物が一斉にニコニコと出迎えてくれる。
 本当に、老い先が手に取るような身近な距離になった今でも、未だに書物が次々と私の書斎にやって来てくれる。
 ゆっくりと机の前に座り、帰りを待ってくれていた書物を撫でてみる。 まるで、犬か猫のように、書物が喜ぶ。 ゆっくりと扉を開き、紙片がいっぱい挟まり、書込が至る所にあるその書物は、気紛れに開いたある頁の、偶然目があった行のところから、さっきまでそうしていたかのように淡々と私に話かけてくる。 口にふくんだフレンチローストのコーヒー豆の香りだけが、うっすらとだけ残り、時が溶けて辺りから消えてゆく。

2019年1月10日 (木)

層をなすものの関係性の繋がりについての雑感

 正月以来、気になっていたことがある。

 過去何十年に亘り恒例になっていた正月の万年筆の洗浄とペン先の調整は、厳しい体調不良によって、ここ二三年は御茶を濁す程度でしか出来なかったが、今年は体調の復活によって何時になくキッチリと出来た。

 洗浄を行うようになって三日目位に、入っていたインクとは異なる色が洗浄用のコップやティッシュに滲み出てきたのに気付いた。 最初は洗浄開始時に抜いたインクの色が出ていたのに、その日からは異なった色が溶け出し始めたのである。
 原因は直ぐに分かった。 この万年筆のインクの色をある年、他の色彩のインクに変更したことがあり、古い方のインクが恐らく層を形成していて、変更した新しいインクが古いインクの層の上に更に新しいインクの層を作っていたのが、白湯による洗浄で、こびり付いていた新しいインクの層が総て溶け去った後、以前の古いインクの層が表面に現れ、それが改めて溶け出し始めたのである。

 そう言えば、丁度体調不良の最初の年に些かよい加減な洗浄の上で、生命の危機を感じたので生きている内に使ってみたかったインクによる万年筆の再配分を行った。 それから二三年は健康上の理由からもう一つ良い加減にしか整備が出来なかったのを、今年になって改めて精を出して整備をしたことによって、残留していた古い基層の色彩までもが溶け出してきたのだ。
 更に洗浄を続けると、下にあった基層の部分もほぼ溶け終え、透明な白湯だけしか出てこなくなり、洗浄は完了。 その年に、何本かの万年筆のインクを再配分したので、その総ての万年筆に同じような現象が起こった。 新しいインクは、古いインクがこびり付いた層を基層とし、その上に新たに自分のインクの層を少しずつ重ねて新しい層を作っていったことになる。

 実にたわいもない出来事ではあったが、表面の層の下に別の層が存在し、場合によっては最後の基層となる部分まで、幾層にも積み重なった層がそれぞれ前後の層を支え、支えられながら表面の層と連なった一つの関係性を持っている、そのような状況の存在に思い至り、一人悦に入った。 嗤われるだろうけれど、惚けて忘れないうちにここに書き留めた。 誰か何かの役に立ちますかしら?

2019年1月 9日 (水)

PCの復活!

 体調不良をよいことに、約一年あまりイジイジと野晒し状態に放置されっぱなしであった小生自作のPCがやっと復活した! この間、古いノートPCの世話になったものの、その遅さと画面の小ささには息苦しさと不安で辟易(ノートも一応はi5、Win.7なのだけれど)。

 殆どの設定は、久し振りであったにも拘わらず、結構順調に推移。 スキャナーや3TBの外付けデータ装置も楽に組み込んだところまでは順調であったが、残ったメールだけが、受信は出来るが、何故か発信が出来ず、エラー表示が出る。 この設定を、二日間必死にやってはみたものの、どうしても発信が出来ない。(ちなみに、PanasonicのノートPCは同じ設定なのに何の問題も無く出来る???)

 思いあまって賢者に相談してみると、自作の場合、Outlookのポートの設定が、一般とniftyとは異なるため、そこは手動による設定が必要なのだよ、と言うことだった!
 そう言えば、このPCを最初に設定していた時に於いても、そのようなことで彼氏を煩わせた記憶が遅蒔きながら蘇った! コチョコチョといじっていると、ポートの設定場所が出てきたので、言われたように数値を変えると、嘘のように開通!!! 惚けたせいで、なんと二日間も浪費してしまった!

 これで、二つのPCによる小生へのサポート体制が再び完成。 改めて、i7のCPUの有難さを噛み締めた! 筆記具や書籍、資料の整備も整ったのだから、あとは、これらに支えてもらいながら黙々と仕事に精を出そう!

2019年1月 6日 (日)

PC蘇生作業

 小生のメインPCは昨年の4月末までは自作機によるWindows7Ultimateであった。
 であった!と書いたのは、この時点で外部からの攻撃で機械がダウンしたためである。

 ネット環境から外し、手を尽くして何とかWindowsが動く環境に復元した(ドライブ等の損傷は無かったから)ものの、ネット環境への接続が上手くゆかず(従ってプリントも出来ない)、加えて体調も思わしくなかったので、仕方無く、謂わばそのまま放置状態が続き、少し古いPanasonicのノートPCでその日その日を呻吟しながら今日までやって来たが、体調が上を向き出した昨年末から、何とかして、この小生手作りの愛着深いPCを蘇生させようと真剣に考え始めた。

 本来ならば、新しくWindows10を組み立てたかったが、書物と資料を買いすぎたため、財布が首を縦に振らず、何とか捻り出した体力をここで使い切りたくなかったので、この際、最低限の外部通信用の最新のイーサーネットカードとケーブル(カテゴリー7で)だけを新調し、蘇生・復元を企画。 何年かぶりで大阪日本橋の行きつけのPCパーツ店へ出向いた。
 予想はしていたが、嘗ての隆盛を知る者にとって、日本橋のPC関連街は見る影もなく寂れ、本当に全うな店は行きつけのショップだけとなっていた。

 モデムから書斎へと有線のケーブルを張り直す作業は、当初の想像を遙かに超えていた。 体力が全くついてゆかないのである。 内の助力を得て、どうにかこうにか書斎の中まで15メートルのカテゴリー7のケーブルを丁寧に張り直したが、更に問題は書斎の書物の裏側を這わせたケーブルの取り替えであった。 一部ではあったが、書物の山を一度廊下に運び出し、天井から垂らしたケーブルを床の隅に張り直す作業は、脚がしびれて床に座り込むほどに苦しく、息が切れた。 改めて、70を超えてからこの様な作業は決してするものではない!と実感!

 PCケースを開き、ネジを緩めて通信用のカードをセットし、蓋を閉じて、苦労して張り直したカテゴリー7の末端をカードに挿して電源を投入。 書物をはじめ、動かした様々なものを元通りに置き直し、寒さを忘れ、丸一日がかりで漸くPCの電源をONにした。 ここからは、椅子に座っての作業になる。

 黙々とした、久し振りの設定作業は、日付が変わる頃に、どうにかその成果を確実にし、機械が小気味よく動き出す様は、今迄何回も味わってきたが、その都度、言い様も無く嬉しさが込み上げる!
 ネットも無事繋がり、充分なセキュリティの確認が終わって、一番にこの書込を今している。

 明日から、再び、この機械で仕事が出来ると思うと、愛おしさが湧くように募った。 細かな設定が残るが、それは明日から少しずつやれば良いではないか!

 手作りで様々な思い入れの籠もったこの機械も、Microsoftのメンテナンスが今年の11月で切れる。 だから、11月からはインターネット環境から外して、しばらくは拙宅内でのイントラネットとして執筆等の作業用になるという余生が待っているが、それまでの間、暫し頑張れ! まずは、真に目出度い!!!

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