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2019年2月 5日 (火)

古書市会場で考えた

 昨日、記事を書いて床についたとき、もう一つ書き残したことに気付いた。 この寒い夜中に起き出して書き足すのも癪だ。 そうだ、もし、明日朝覚えていたら書けば良いではないか、思い出せなかったとしたら、それは大したことでも無かろうて、と言い聞かせて、昨夜は妙な安堵をして寝入った。 考えとは裏腹に、自分は恐らく覚えてなんかいるまい、どうしても書かねばならぬのなら、自分の性格からすると、何時であろうと、どんなことをしてでも起き出して書き終えるはずだからということが分かっていたからである。
 ところが、目が覚めてみると、意外にもしっかりと覚えていた! いやはや、私も些かしぶとい!

 話はこうだ!
 この十年近く前から、大きな野外での古書市で、旧家から出たであろう厖大な数の古文書の山が、あちこちで砂埃の中で悲鳴を上げているのに気付き出した。
 大学の研究室や、研究所では、保管場所も手狭になったり、教務からは嫌味を言われ、大学からは紙の山等にビタ一文の予算さえも振ってはくれず、就職先が気になる院生やポスドクの若者達からも、余程のことがない限り、地味で根気が必要であり、成果の保証が全く付いていない、訳の分からない和紙の山などへの関わりを嫌うようになってしまっている。

 何等かの事情によって、古文書達は、斯くの如き埃舞う路頭に追いやられ、奇特の士を往来に切望せねばならなくなったのである。
 勿論、様々な玉石混交の体を成す総ての古文書達に保護を与えることなど到底不可能ではある点は小生も十分に了解しているけれど、研究者やその卵たる者は、鍛えられた(あるいは鍛えられつつある)学識を駆使し、少しでも資料のもつ個別的な意味を読み解き、あるものは記録に留め、保護しなければならないものには保護を加え、時に後進のための教材にさえ役立て、やろうと思えば出来なくもなかろう。
 目の前で、消滅の危機に瀕し、徒に風に遊ばれて紙箱の中で怯える古文書達の墨痕が、舞う砂埃の中で、寂しげに私に悲痛な問い掛けを続ける。 私は自らの無力を恥じつつその場に立ち尽くし、暗澹たる気持ちが払っても払っても押し寄せてくるのをどうしようもなく眺めているしかない自分が腹立たしくなる。 (他方では、これらが甚だ高価で売り出されていることも、ある本質的な空しさを一際増大させている。)

 古文書達だけでは無い。 最近の野外で催される古書市では、売れなくなったかつての歴史的に重要な学問的文献でさえ、何の惜し気も無く、青天井の下で二束三文の一冊100円で山積みされ、客寄せの材料にされている(この機会に新しい庇護者に巡り会えなければ、彼等は書物としての役割を解かれる。だから、彼等には庇護のためのテントは初手から与えられていない。)。 予算の乏しい私などは、その餘慶に与るべく、セッセと出向き、昔買い損ねた書籍を探し、手目の良い重要書を研究予備の為に重いのを我慢し、歯を食い縛ってでも買って帰るには良い機会ではあるが、しかし、本来はこれらをもっと学生達へ行き渡るような何か別の手段や方法は果たして無いものであろうか、と何時も考える。(他方では、書物が来ても、指導できるまともな教員がいなければ極めて意味が薄いのだけれど!)
 しかし、先学が心血を注ぎ紡いだ重要な学問的遺産が、これまた、裁断と焼却の瀬戸際で空しく太陽を仰いでいるのを見るにつけ、悲しみが胸を突く。 もし、急な雨がきて、濡れでもするようであれば、間違いなく彼等はこの世からその書物としての姿を消されてしまう。 立ち竦み、ただ、溜息をつく。 これらの重要な学問的遺産が、何とか、誰か向学の士に無事届いて欲しいと、切に願わずにはおれない!

 人は嗤うかも知れないが、恩師の書物などは、嘗て、古書市で出会う度に、良いものは可能な限り、我が書斎までお出でを願った。 同じ書物を十何冊も買って、お出でを願った。 しかし、絶版になっている恩師のこの書籍は、実に様々な用途があり、この総てが現在使用中である。 次に出会う機会があれば、もう一二冊、是非お出で願おうと思っている。(恩師の書物が書架や台の上に並んでいるのに出くわすと、書物が話し掛けてくる、すると私は彼等をどうしても書斎にお招きしてしまう。 時に、どうだろう、と思うことも無くもないが、どうもこの癖だけは生きている限りどうしても治りはしないのである。)

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