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2019年2月 6日 (水)

全集・著作集は如何にあるべきかを問う

 もう終わり、と言いながら三つ目を書くと、それは大概駄作と昔から相場が決まっている。
 だけど、今朝起きると、どうしても、これも書いておきたくて、些か逡巡したものの、やはり書いてみよう(老人はこのような勿体ぶった書き方をする!これは要注意である!)。

 もう十分生きてきたので、内外を問わず、全集や著作集なるものは数限りなく手に取ってきたし、小生の苫屋の書斎にもいくつかが鎮座されている。

 ただ読むだけであるならば、特に目くじら等を立てないで、ただ味わえば良いだけなのだけれど(目が眩むような高価さを除けばである)、研究用資料としてこれを手に取る場合、大いに嘆息を禁じ得ない!

 何故ならば、まず、引用文献の選択肢が余分に一つ増えたからである(多少、私の我が儘があるが)。 手持ちの初版ものから始まる既版の書籍であれば、改訂や増補が影響しなければ、頁数は概ね変化しないのであるが、全集や著作集版は申し合わせたように原本と頁数が変わるため、どうしても財布に哀願して、何とかして我が儘を聞いてもらわねばならなくなる(まずは、該当する新しい頁数を把握するために、である)。
 さらに面白くないことに、原著者の手控え本によって改訂したり、言い回しを原著と変化させたり(漢字や表現、仮名遣い等々)と、編集者は勝手なことを言うが、一番肝心な何処を改訂したのか、何処の表現を現代風に改めたのか、発見されたどこのミスプリを改めたのかについては、大抵全く示されていないことが多く、些か失礼千万(著者に対しても、古くからの読者に対しても)ではなかろうか! 最も驚愕に値するのは、原著の先生がご存命であればと書き付けて、時代の推移により、先生ならばここはこうしたであろう、等と身勝手な編集を加えられるのには本当に辟易し、研究者としての資質を甚だしく疑う。
 ドイツ語の所謂髭文字が新しいものに置き換わっているのは、当初は読み易くて楽ちんではあるが、髭文字とて、慣れれば結構それほどには苦にはならない(だだし、老人は視力が弱っているため、時々読み間違いがおこり、一時意味不明に悩んだりするのは、個人的な不勉強の祟りと言うべきであらう)。

 全集や著作集を世に出そうと企画された理由は、ただ、著者を顕彰するためだとか、その書物が手に入り難くなったから、という理由ではあるまい。

 編集諸氏に問いたいのは、原著者の一体何を後世に伝え、引き継ぎ、引き渡すために、必要に駆られての全集や著作集の企画・編集であったのであれば、どのようなものが後世・後学に対し、遺されねばならないのかという一点についての存念である。

 歴史的に重要な書物(遺産)は、そのどの版を先ず後世に遺し示すことが大切なのか、原著者が遺した個人的な記載(自家用本への書き込み等)や、後々の版で公刊された変更箇所等々を逐一明示することで、後学の人達に原著者の示したかったことへの肉薄の径をどう探らさせれば良いのか、更なる学問の発展に資するために、そして何としても後学に示し、伝えなければならない著者の息吹とはどのようなものであったのかをどうやって示せるのかという点での原資料について十分な検討が編集者に求められている。
 だから、一般的には、原書籍が初めて世に問われた初版を原頁通り、書式も原書籍通りに復刻し、知り得た情報を脚注として巻末か、別冊子に編集する努力が本来有るべきではなかろうか(場合によっては最終版が最適となる場合もある)。(私は旧字や旧仮名遣いは苦手で困る等という輩は、そもそも初手から学問をする資格はありません。何のために辞書があるのか、君は何のために今迄学問をしてきたと、自問自答をまず何よりもされるべきであろう。)
 (ただ一言付け加えると、複雑で日数をたっぷりとかけなければならなくなると、どうしても高額な価格からは逃れられず、出版を事業として行うには採算上問題が多いため、出版側と編集側はお互いに妥協が必要となるという出版社の指摘があることにも留意が必要かも知れない。しかし、後世に示すためには、どうしても乗り越えられない壁とは思えない。双方共に意識を転換すれば、乗り越えられないはずは無い、と愚考する。)

 嫌味を最後にもう一つだけ書き記すと、原著者が意味を持たせて作った筈の著作物の空白域が大抵の全集や著作集版では無視されて、ノッペリとした面白みの無い気の抜けた紙面に成り変わっていることに大変な失望を禁じ得ないことである。
 著者が注意深く提示した余白域が存在するとき、編集者が遺し伝えなければならないことは、まず原著者の息吹であり、原著者の鼓動を感じさせるこの重要な構成を読者が捉えられるようにしなければならないことで、消し去るようなことは、断じてすべきでは無い。 特別に余白域を著者が設けた場合は、それは立派な構成要素として捉えることが要求されているのであって、ただの印刷上の空白域・余白では無いことを改めて認識しなければならない。

 なにをおいても汲まなければならない論点は、原著者の意図であり、伝えたいと原著者が願ったことへの配慮であろう。 これが他の一切合切よりも優先すべき最重要点であること、そしてこれが唯一の目的であるということを、改めて心に刻むことでなければならない。
 そしてなによりも、そのことが著者自身が何よりも望むであろう唯一の論点であり、全集や著作集を繙く読者にとっても編集者に切望する唯一無二の論点でもあるのだから。

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